父が12月始めに亡くなりました。
10月に最初に心臓が止まってから亡くなってしばらくの間は生活は全く落ち着きを失くしていました。そして、父の死後、かなり動揺していた自分にとても驚きでした。事務的作業・機械的作業はこなせるのですが、新たに何かを書き著すといったことが手につきませんでした。
どうもすみません。
実は7月から、かなり重篤な状態で入院してました。
それ以前からもかなりのもので身障者で要介護者だったのですが、これは何度目かの脳梗塞でした。
入院後しばらくは安静に推移していたのですが、10月になると本格的に心停止が来ました。
懸命の処置で停止後間もなく心臓は動いたのですが、意識が戻りません。
10日は経過して目は開いたのですが、話しも出来なければ指先を動かすことさえ侭ならない様子になってしまいました。
危篤状態には変わりませんが目が空くと空かないとでは、回りにとっても大きな違いがあるみたいです。
しかし目が空くと同時に、覚醒時も睡眠時もへだてなくうめき続けながら呼吸をするようになりました。
これは死ぬ前日まで続きます。
さて、まだ本人が話ができる内に、人工心肺を装着したりとか胃に穴をあけて栄養を流し込んだりというような無茶無理な延命措置は一切しないという約束をしていました。
なので、集中治療室に運ばれてきては人工心肺付けては次ぎ次ぎと死んでいく他の患者さんを見つつ、本人の自力呼吸の補助する簡単な酸素マスクと点滴や輸血等で治療を続けました。
そんな徐々に衰えていく様子を静観するという状態でしたが、11月になるまでには脳梗塞がまた起こったりまた心臓が止まったりと様々ありました。
その度に早朝だとか仕事中だとかも関係なく家族は呼び出される日々です。
まあそれでも、静かに衰えていく様を見守るといった感じの"見舞い"でした。
しかし11月に入るとまた違った様子が現れました。
右足のふくらはぎの辺りがむくんで腫れて熱を持っているのです。その大きさは太もも並に。
ほどなく脚が裂けて大量の膿が出てきました。これは医師からの伝聞です。
体が内側から腐ってきていたそうです。
壊死のように体組織が死んで腐っていくのではなくて、雑菌が混入して生きたまま腐って膿の生産を続けていたのです。
通常ならば患部切断して身体本体を守るところですが、元来の容態が重いためにそれも出来ません。
これで心臓で死ぬか脳で死ぬか足の毒が体全体に周って死ぬかの様相になって来ました。
この状態からまだ1ヶ月以上持つわけですが、これからがなんとも悲惨でした。
生きながら腐るというのはもの凄い物がありますね。
長く入院を続ける患者の匂いとも風呂に長い間入ってない人の匂いとも違う、とても耐え難い悪臭を放ち始めます。
その医療処置の様子はついぞ一度も私たち家族には見せてもらえませんでしたが、身体の裂け目から膿を押し出し揉み出す事が日課の担当看護婦さんたちの労苦は想像を絶するものがあります。
それから心停止の頻度も上がり、腐れも次第に拡がって行きます。
ただ面白いことに、心停止して蘇生した直後は脳が活性化するのか、なんとなく聞き取れる単語を発するのです。家族の名前とかありがとうとか、パーキンソン病の症状で口を閉じる事が出来ないので全く聞き取り辛いのですが、その簡単な言葉は一時の慰めにはなりました。
その時に足が痛いとは言っていました。
身体の負担になるので一切の麻酔や麻薬類は使ってないのですが、腐ってる部分に激痛を感じるという事はなかったのでしょう。酸素マスクを止めているゴムひもを誤って顔にはじいた時ほどの痛みも感じていていないようなのも、救いでした。
そして11月も後半になると、母の様子がおかしくなり始めます。
ひどい頭痛がするらしいのです。でもそれは家に帰ると直ります。
長期間危篤患者を看病するというのは、毎日付きっ切りでもない自分でも大変なのだから相当な労苦なのでしょう。それに入院に到るまでの間に数年間の自宅での介護もありました。
疲れが最高潮に達して、このままあと2ヶ月も父が持ったら、肉体的精神的疲労で母の方が先に逝ってしまうのではないかとまじめに思ったりもしました。
集中治療室に入ってから2ヶ月とちょっと、12月になって父は逝去しました。
半日以上もかけて呼吸も心拍数も次第に少なくなっていきます。ついには毎分数回程度にまで減ってきて、そして穏やかに亡くなりました。
まるで電池が切れるように静かに停止しました。
とても幸せそうな死に顔はそれまでの闘病が嘘のようです。
母を始め誰も取り乱すことも無く、むしろ本人の為にも家族の為にも早い死を望んでいたこともあり、その後は粛々と儀式を進めました。
しかしなんだか母が「こいつ人の話を聞いてるのか?」ってな感じのとんちんかん状態になってしまったのには少しびっくりしました。まあでも、死後10日くらいまでそんな感じでしたが、もう今では普通の状態に戻ってますし、頭痛も起こらなくなったそうです。
そしてわたしも泣く事はなかったのですが、自分で書いた挨拶文を読み上げてる最中に、人前で話す緊張感とは違う、なんとも言い表し様の無いものが込み上げて来て我ながらとても驚きました。
わたしは多分平気だろうと思ってて、事実一番平気だったようにも思えたのだけど、それなりにいろいろ来てたみたいです。
夏コミ直後の日記で冬の申し込みをためらっていたのは、日程上の都合以上にこういう理由もありました。といういい訳でした(笑)
最後に…、この文章を書くのにもとてもパワーが要りました。
正直、遺族代表挨拶文を書くよりも疲れました。
本が出ないっていうのも人が死ぬっていうのも、事実を正面から受け止めて物を書くっていうのは、起きた事の軽重はあるにしても、とても消耗するものなんですね。
ここまで読んで頂いたせんせいさんの皆さま、どうもありがとうございました。
2007年12月25日 エスカー江之嶋